bW 飲み水を買う時代と処
外国の街角では、飲料水を宅配するトラックが停まっているのをよく見かける。
日本ではあまり見られない風景だが、江戸時代から明治、大正の時代までは東京にも飲料水を売る商売が有ったようだ。
会社の近くの清澄通りの仙台掘川に架かる海辺橋を、昔を知る老人で「ミズバノ橋」と呼ぶ人がいる。子供の頃から聞き慣れていたかが、橋のたもとに飲料水を運んでくる舟の荷揚げ場があったようだ。
何時の頃まで、飲料水の荷揚げ場があったのか定かではないが、少なくとも大正生まれのご老人が親しくミズバノ橋と呼ぶのだから、大正時代までは舟で飲料水を運んでいたと考えられる。
この近辺は、戦前の区名を「深川区」と呼んだ。江戸時代も深川は佐賀町に米問屋が多く、米の相場を決める場所だった。
東京になっても、戦時中の配給制度になるまで、東京、関東一円の米穀の流通を担ってきた。
木場の材木商は江戸から東京へと材木の消費を一手に賄ってきた。
江戸時代のたびたびの大火や、首都としての東京の発展、大正の関東大地震、昭和の空襲の復興と、木場の材木問屋は密接に関係したことは間違いない。
米問屋と材木問屋の旦那衆を頂点として、その使用人、使用人の家族、または住み込みの丁稚小僧達の経済波及効果は繁華街を生み、人々が集まってきた。
こんな経済的背景が深川にはあった。
したがって、深川には経済力に支えられ、様々な文化が発達した。
深川の花柳界は、お座敷に出るときも“羽織“を羽織ることを許された辰巳の芸者衆がいた。また、洲崎には庶民的な遊郭が栄えた。
深川の氏神様は富岡八幡宮。八幡様の祭礼は「神輿深川、山車神田。だだっ広いは山王さま」と言われる江戸三大祭で名を売った。
深川が江戸の経済を支えた証として永代橋が架かっていた。
武蔵、上総両国に架かる両国橋以外に、大川に架かる橋は無かったのだ。
深川は、徳川幕府が縦横に掘割(運河)を作って舟運を発達させ、内陸部の農作物の運搬や物資の流通が盛んだった。明治には蒸気船が内陸の運河伝いに銚子まで、定期船が就航し人や物資を運んだ。
深川だって井戸を掘れば水は出てくる。飲料水か出なければ町の繁栄もおぼつかないが、深川の住民は《より美味しい水》を求めて、近在の良質な水を買って生活用水に使っていた。想像だが、自宅や長屋の井戸よりも、地方から運ばれてくる飲料水のほうが、飯を炊いても、煮物を作っても、お茶を飲んでも美味かったのだろう。
“たかが水、されど水”食の原点が水であることを知り、対価を払っても惜しまない「粋な食文化」を築いた深川の住民の心意気は素晴らしいと想う。
外国の街角では、飲料水を宅配するトラックが停まっているのをよく見かける。
日本ではあまり見られない風景だが、江戸時代から明治、大正の時代までは東京にも飲料水を売る商売が有ったようだ。
会社の近くの清澄通りの仙台掘川に架かる海辺橋を、昔を知る老人で「ミズバノ橋」と呼ぶ人がいる。子供の頃から聞き慣れていたかが、橋のたもとに飲料水を運んでくる舟の荷揚げ場があったようだ。
何時の頃まで、飲料水の荷揚げ場があったのか定かではないが、少なくとも大正生まれのご老人が親しくミズバノ橋と呼ぶのだから、大正時代までは舟で飲料水を運んでいたと考えられる。
この近辺は、戦前の区名を「深川区」と呼んだ。江戸時代も深川は佐賀町に米問屋が多く、米の相場を決める場所だった。
東京になっても、戦時中の配給制度になるまで、東京、関東一円の米穀の流通を担ってきた。
木場の材木商は江戸から東京へと材木の消費を一手に賄ってきた。
江戸時代のたびたびの大火や、首都としての東京の発展、大正の関東大地震、昭和の空襲の復興と、木場の材木問屋は密接に関係したことは間違いない。
米問屋と材木問屋の旦那衆を頂点として、その使用人、使用人の家族、または住み込みの丁稚小僧達の経済波及効果は繁華街を生み、人々が集まってきた。
こんな経済的背景が深川にはあった。
したがって、深川には経済力に支えられ、様々な文化が発達した。
深川の花柳界は、お座敷に出るときも“羽織“を羽織ることを許された辰巳の芸者衆がいた。また、洲崎には庶民的な遊郭が栄えた。
深川の氏神様は富岡八幡宮。八幡様の祭礼は「神輿深川、山車神田。だだっ広いは山王さま」と言われる江戸三大祭で名を売った。
深川が江戸の経済を支えた証として永代橋が架かっていた。
武蔵、上総両国に架かる両国橋以外に、大川に架かる橋は無かったのだ。
深川は、徳川幕府が縦横に掘割(運河)を作って舟運を発達させ、内陸部の農作物の運搬や物資の流通が盛んだった。明治には蒸気船が内陸の運河伝いに銚子まで、定期船が就航し人や物資を運んだ。
深川だって井戸を掘れば水は出てくる。飲料水か出なければ町の繁栄もおぼつかないが、深川の住民は《より美味しい水》を求めて、近在の良質な水を買って生活用水に使っていた。想像だが、自宅や長屋の井戸よりも、地方から運ばれてくる飲料水のほうが、飯を炊いても、煮物を作っても、お茶を飲んでも美味かったのだろう。
“たかが水、されど水”食の原点が水であることを知り、対価を払っても惜しまない「粋な食文化」を築いた深川の住民の心意気は素晴らしいと想う。




