おいしい水を作る天恵石 エッセイ集

9 夏の飲み物の想いで。  

 

私は、昭和11年11月米屋の長男として東京市深川(今の江東)区に生まれた。

特に祖父母からは、待望の長男として過保護に育てられた。

 

幼い私は、夏場は水道の水は飲ませてもらった事はない。いつも一度薬缶で沸騰させた湯冷ましの水だった。冷蔵庫で冷やしてあるのだが、幼かったが湯冷ましの水は寝ぼけた味で美味くないと思っていた。

 

深川の縁日や駄菓子屋には、ラムネやみかん水が売っていた。皆が買って飲んでいるのに私は買ってもらえなかった。私だけが買い置きのサイダーをコップに入れて飲んでいた。やはり皆と遊びながら飲みたかった。(コップを持っては自由に遊べない。)

 

氷水もしかり、祖母は絶対に食べさせてくれない。

お縁日に行けば、きょうぎを丸めた器にかき氷を盛り、シロップのビンの口に杉の青葉を詰め、そこからシロップを振り掛ける。見ていると美味そうだったが、観るだけで一度も食べさせてもらったことはなかった。

祖父と夕方に散歩をすると、『COFFEE』の白い暖簾が下がる喫茶店で氷水を食べさせてくれた。(CとEFは蒸気機関車と電気機関車の動輪の記号だから読めた。)

だが祖母は、散歩から帰ると口を開けさせられて、イチゴやレモンの色が舌に残っているのですぐにばれてしまい、祖父は祖母に小言をくらうことになる。

父と母には飲み水の記憶はないが、夕方の銀ブラでは、決まってアイスクリームやクリームソーダを食べさせてくれた。高い天井から半透明の電気の傘が幾つもぶら下がり、プロペラのような大きな扇風機の羽根が廻っている店だった。

 

祖母が、飲み水に神経質なのは、エキリや赤痢、腸チフスなど、今ではほとんど聞かない高い死亡率の疫病があったからだから、本来なら祖母の神経質なほどの愛情に感謝しなければならないのだろう。

 

もう一つ夏場は、巣鴨のとげ抜き地蔵のお札を毎晩寝しなに飲まされた。小さなお札を丸めて臍の近辺を擦りながら「チチンプイプイ、何とか何とか?」とつぶやきながら、お札を飲まされるのも日課だった。

 

幼稚園の時、大東亜戦争が始まり、国民学校1年生の時東京に初空襲があり、これを機会に母と弟と三人で静岡市の安西の親戚のお茶問屋の離れに疎開した。

 

祖母の干渉から解放されたから、学校や公園の蛇口から水をがぶ飲みして開放感を味あうことができ嬉しかった。

1年生の夏休み前、プールの授業で泳げない私を先生がプールに放り投げ、溺れて水を飲んでしまった。それが原因?で高熱が出て夏休み中病床にあった。きっと雑菌に対して免疫力がなかったからだろう。

先生が桔梗の花を持って見舞いに来てくれたのを覚えている。

 

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